「創部60周年記念に寄せて」
 
(記念レコードジャケット寄稿文)

 

私が入部したのは昭和5年,当時のソサエティーはシンフォニーシステムを採り,使用楽器も音色を異にしたそれになぞらえた名称の楽器を使用していた。
 これは先輩の苦心の作で,日本楽器に特別に設計注文した明大独自の楽器で,早慶日各大学ソサエティーから羨ましがられた逸品であった。ファースト,セカンドヴァイオリンなどは3オクターブあり,シンフォニー曲演奏には欠くことのできないもので自慢の楽器であった。しかも,他大学はBC調を使用した。その理由は読者諸氏にお考え頂こう。

 
パートの転籍も私は多かったヴィオラ,セカンド,ファゴット,クラリネト,オーボ,フリュート,ファーストと転じ卒年次1年指揮者を勤めた。
 やはりよき思い出は,演奏旅行で,北海道,東北,中部,近畿,九州,と毎年方面を変えて赴き,さらに昭和8年には待望の中国上海への演奏旅行に加われたことである。
 秋の定期演奏会には棋界のお歴々がスコアーを持参,会場2階正面に陣取り演奏のアラさがしには驚いた。明大ならではのことであります。
 在部後半には大学は予科が代田橋に転じたため,部員数も減少し練習も思うに任せず苦労したが,卒業演奏にはハーモニカでは本邦初演で「セミラミーデ」を指揮し,且つ「トラヴィアダ」全曲抜粋を指揮し良い思い出である。

 
伴,阿部,布袋,斉藤,各指揮者の後を継ぎ責任重大な指揮者だった。先輩指揮者が余りにも優秀な人達だったからである。又,名奏者も多数想い出す。フリュートの小沼、布施両氏,ファーストの友石氏,バスの吉田弥三郎氏,ファーストの坂田隆氏等々数多い。
 最近の演奏は電気効果を利しうらやましい限りである。我々の時代には,音響効果を大にする為には息を口一杯ためて吹奏することで,特にバス,ファゴット当はオルガンのリードにも似たリードの吹奏で奏者も随分苦労したものである。
 ハーモニカソサエティーの名とはいささか疑念を懐く現在のソサエティーであるが部内統一が完全の様で結構である。要は人の和が部の発展に最大の要素であり,現部員諸君のますますのご発展を祈るや切、女子部員も多数居られ,音楽に親しむよき学生生活を多分に持たれ,人格形成に役立たれたし。
  <山田太郎 昭和10年卒・東京>

昭和の初めの頃は,日本の音楽にとっても,明大ハーモニカソサエティーにとっても画期的な年だった。
 
大正14年のNHKラジオの仮放送時代に明大ハーモニカソサエティーは芝浦の小さなスタジオから放送した。その後,愛宕山から毎年のように放送をつづけた。
 昭和3年はレコードが電気吹き込みになった年で,早くもこの年の12月に明大ハーモニカソサエティーは、ビクターでレコードに録音した。曲は「ウイリアムテル抜粋」「キングカールマーチ」「ラコッチィ行進曲」の三曲を吹き込んだ。

 
そのころ,藤原義江の「波浮の港」やコロンビアから宝塚の「モンパリ」が売り出され、蓄音機も手巻きから電気蓄音機時代に移り,音質も一変した。このころから日本調の歌全盛から,明るい西洋音楽調の歌に移って行く。
 
ビクターで吹き込んだ明大ハーモニカソサエティーのテスト版が2週間後にできあがった。ビクターで受け取って大切にかかえて帰り,早速神田のゆきつけの喫茶店「アルル」のフランスウィックにかけた。みんなで電蓄に耳を押し付けるようにして聞き込んだ。「まるで管弦楽の演奏のようだ」と感激したほどだからその時の興奮振りがうかがえる。
 
この昭和3年には,2回の定期演奏会のほかに1月には上海演奏旅行、7月には関西から京城・釜山に演奏旅行の足を伸ばした。ほかに御大典奉祝音楽大行進に加わり上野から銀座,宮城前まで行進する,などソサエティーにとってまさに黄金時代であった。

             
 <今泉武治 1930年(昭和5年)卒業・三鷹市>

 

私が初めてソサエティーのハーモニカ合奏
を聞いたのは,関東大震災の前だった。
 それはかんだ美土代町のYMCAだったと思う。
曲は「ダブル・イイクル」や「ダニューヴ河
の漣」そのほかポピュラーなものであったが,
私は感激と興奮でその夜は眠れなかった。

 大震災後私は慶応から明治に転校した。学
校は大勢の学生たちがレンガを片付けていた。
近くの焼ビルの商工学校に仮校舎があり,学
生は二部教授だったが,駿河台の本校にもバ
ラック校舎が建てられ,掲示版にハーモニカ
ソサエティー部員募集のポスターが貼られた。
 私は,錦町のソサエティー事務所でおそる
おそる入部試験を受けた。試験委員は大塚潤
一郎、中村君雄氏ほからで、そばにあった大
学ノートの楽譜を無雑作に開いて吹かされた。
その頃のハーモニカの楽譜は数字の1,2,
3であった。私はひどい音痴でどきどきしな
がらやっと吹いた。

 
そしてようやく入部できた。後で知ったの
だが,その時の試験曲は「トラバトーレ」の
一節であった。

<酒井昇 1926年(大正15年)卒業
  ・千葉市>

 「マイ・ウェイ本番テイクワン行きます!」モニター質からの声が会場に流れる,指揮者の手がサッとあがった,ハーモニカを持つ手がガタガタふるえ,唇がすっかり乾いてしまっている,緊張の連続で全員顔を引きつらせながら,こうしてレコードの録音が始められました。
 思えば去年の夏,今年がちょうど部創立60年目にあたることを聞き,私たちは大いにあわてました。何しろそれまで,部員の誰一人としてそのことに気付かなかったのですから,内心,これはえらいことになったと思ったのですが,その後多数のOBの方々のご協力を得て,去る6月3日に部創立60周年記念演奏会を無事終わることが出来ました。このレコードA面に収められた6曲は、その日のリハーサルの時に録音したものです。
 現在の部員構成は,男子30名,女子18名,計48名です。昨年から比較すると随分減ってしまったなあと思います。やはりなんといっても一番辛い事は部員が減っていく事です。一人,又一人去って行くのを見ることは何とも言えぬ寂しさとくやしさを覚えます。去っていく人に対して私たちは無力であり,こんなにこのクラブは魅力がないものなのかと自分でも疑いたくなるほど,いっそ自分もやめてしまおうかと思ったこともあります。
 しかし,こんな時いつも感じるのは60年という長い年月の重さでありました。同時に心の支えにもなりました。明治大学ハーモニカソサエティーは自分たちだけのものではない,60年間に在籍していた人たちのものでもあるということです。
 今、三年半の活動を終えてみて,この60年のおおきな流れをからすことなく終わることができたという満足感で一杯です。これから61年目に向かう後輩の皆さんには、どうかこのクラブの灯を消すことなく、ますます発展されんことを祈ってやみません。

                         
<山谷淳 昭和54年・東京>






私が入部した頃は,ちょうどハーモニカでイージーリスニングを始めた頃だ。
 和泉後者での新入部員勧誘ステージから流れてきた“シバの女王”。今でもテーマ曲として使われていることは,あの感動が時代の流れこそ違っていても,生き続けているのだろう。
 箱ベースを使い,セミアコスティックギター,でリードを入れ,バスドラムのないリズムセクション,そんな編成での演奏だったと思う。
 それでも精いっぱい流行を取り入れ,翌46年にはサンタナに代表されるロックに手がけた。その頃からエレキギター、エレキベース、ドラムセットの買い替えがあったのを覚えている。その後は,楽器編成も,選曲も,編曲も,技術も洗練され,今日に歴史が続いている。
 幹部は,恐ろしく,強い存在だったというのが,少なくとも,我々の体験だ。46年卒業の鈴木先輩に代表される。私自身もその精神は受け継いできたつもりだが。下級生から見れば4年生は神様にも見えた。何しろ最初の合宿の時,猿ヶ京では先輩の寝具も片付けたし,食事の準備が悪いと言っては叱られた。演奏旅行で,熊本へ連れて行ってもらったときは,両手にコンガを持たされた。コンパでは,アル中になるかと思うほど飲まされた。
 そんな試練もなんのその,幹部になったときは嬉しかった。反面,目いっぱい虚勢をはって,苦労もした。幹部になって,初めて演奏した時の頼りなさ(苗場での合宿)。クラブ運営の資金の工面etc・・・。
 しかし,私の同期の時代から,大谷嬢を筆頭に,女子部員が増え,台頭してきて,恐い幹部の神話が崩れはじめてきているように感じる。でも,当クラブの高貴的存在を味わえたことは,一生の思い出になるだろう。(サラリーマンには二度と経験できないだろう。)
                     <矢吹孝 昭和49年卒・東京>

昭和33年,時あたかも春,本館中庭,思い思いに机を並べ,呼び込みの声もすさまじく,ご存知部員獲得合戦,当時めづらしく幹部一同打ちそろいつい暇な故,つかの間の居眠りをむさぼりつつある時,突如耳元で甘く黄色い声・・・,これがわがハモソ歴史に残るウーマンリブ誕生の一瞬でした。
 伝統あるハモソ,義理と人情の男の世界に女性がまぎれ込む?・・・。過去の女性史それにまつわる歴史的考察をもってしても当然起こるは第三者的男性,すなわち鬼より怖い諸先輩の抗議の声(若しかすると喜びの抗議だったかもしれません)その非難の声をまともに受けるには小生幹事長,あまりに細心!!コリャイカン!!とひたすら遁走、郷里仙台にて高見の見物をきめ込みました。さて残る感じ諸侯のご苦労の程いかばかりか・・・現在に至っても語り草,そして小生は永久に卑怯者の烙印を押されました。
 そして20年、涙ぐましい女性解放運動が実をむすんだか昨今のハモソ女性の進出めざましく,今度は男性部員がボイコット運動等起りゃせぬかと余計な心配し始めて降ります。編集部よりエピソードでもとのご連絡,何しろ強者(つわもの)共の時代ゆえ,奇談珍談列挙の暇(いとま)もなく自慢できるのはこんな事位とご披露しました。
 ハーモニカ音楽現在は演奏技術,楽器の種類編曲方法等当時に比べ隔世の感がありますが,どの時代の演奏にもそれなりの良さがあり今度はその集大成とも言える宿願のレコード制作,非常に価値あるものとなると心から期待しております。おめでとうございます。また,紙面をお借りし,制作にご尽力された方々には最大の敬意を表すると共に今後のご活躍の程お願い申し上げます。
          <大津東一郎 昭和35年卆・塩釜市>

創立60周年記念のLPが発刊される報に接し現役時代を追想し喜怒哀楽,様々な思い出が脳裏に飛び交い懐旧溢れる今日です。
 献身的情熱で部を指導された石川先輩は戦後のソサエティー発展の根源であり,また,私たちに与えられた精神面での薫陶は大きい。功績に対し総意で最大の賛辞を贈りたい。
 当時の楽壇は米軍専用時代であり学生音楽団体に対する評価は高く、全国各都市での六大学音楽会は好評でああたし,超一流プロバンドとの競演との競演も多かった。文化放送の企画である六大学音楽リーグ戦が数年継続されたことはこの辺を物語るものであり,ソサエティーもマンクラと交互出演し戦前の知名度復活に活躍した時代であった。
 小笠原先輩のご努力による能代市での演奏会,復活第1回定演に備えての韮崎市小林文光堂での合宿と演奏会,等々同じ想い出を持つ友のいる幸せを感じている昨今です。
 現役,OB共に協調し良い習慣を作り伝統をより一層輝かしいものとしたい所存です。

                       
<大須賀実 昭和29年卒・大宮市>

私が入部しましたのは昭和17年で第二次大戦の始まった年であります。
 17,8年頃はまだよかったのですが19年頃からは軍事教練に着用する服に巻脚絆をつけて通学した時代です。
 しかしソサエティーの練習は休まずやりました。定期演奏会も春秋2回やりました。と言っても会場は共立講堂か記念館講堂でした。切符は確か50銭で1年の頃は一人50枚位は責任を持たされました。さばくのに必死でした。当時の編成は殆どハーモニカが中心でドラム,アコー,ギターがある位でした。でもその方が本当のハーモニカの味があった様に思います。従ってハーモニカの奏法の上手な先輩がたくさんおられました。
 当時練習できびしい思い出のある曲には「未完成交響曲」「ペルシャマーケット」「運命」等があります。また,必ず吾妻八景,越後獅子等日本調のものがプログラムに組まれた事を想い出します。
 学徒出陣で送別演奏会を最後にクラブ活動も自然休止となりました。やさしくてきびしい当時のよき諸先輩も戦争でなくなられた方がたくさんあり残念です。諸先輩のご冥福をお祈りするのみです。先輩のOB会にて林先生,関本,岩本,鳥居,筒井,吉村諸兄に再会できました事を感謝しております。
      
<渡辺光郎 昭和22年卒・大阪市>

私が昭和17年末に現役兵として樺太(今のサハリン)に入隊するため(学生繰上げ卒業のハシリで12月28日に卒業式でした)上野駅から故郷札幌へ帰る時,ソサエティーの次期部長(今の幹事長)浦上(故人)氏他,全員40名が駅頭に楽器持参で集まってくれて演奏(マーチ2〜3曲だったと記憶してます)で壮行してくれました。
 おそらく,ソサエティーが上野駅のど真中(当時駅の真中に円型の囲いあった)で演奏したというのは前代未聞のことだったでしょうし,駅にいた人々も驚異をもって演奏の輪を囲んでいました。送られる立場の私もやや興奮気味で1曲タクトした事も,そのときの演奏の音も耳に記憶されています。
 今,こうして思い返していえるのは,全く中学校1年から私のハーモニカ人生万歳というところです。
 近時のハーモニカ情勢だからこそ,明大ハーモニカ・ソサエティーよ不滅であれ!

                     
<小笠原晴海 昭和16年卒・能代市>

ソサエティーに入部した動機には,年代別に様々なものがあると思います。
 我々,同期の連中は,かくも伝統あるクラブとは思いも付かず,また,特に音楽に秀でる者もないという有様でした。
 諸先輩の指導は技術的なことはもとより日常の生活態度にまで及び,入部の際に勧誘に来てくれたやさしいお兄様たちのイメージはすっかり消えてしまいました。まるで鬼の様にさえ感じ,練習,合宿という辛い毎日でクラブの選択を間違えたのではないかと思ったものでした。ところが4年間が過ぎると上級生の風格が出来るもので,下級生に数多くの想い出を残せたと思います。
 その間、北海道から九州までの演奏旅行。数多くのステージを経験し,よくこの狭き門を卒部できたものと思うと同時に,素晴らしい貴重な仲間を作り得たソサエティーに対し,感謝の気持ちでいっぱいです。
 このレコードには数多くの想い出が込められており,きっと忘れかけていた青春の砂浜を掘り起こしてくれることでしょう。
       <小林弘佶 昭和44年卒・札幌市>

今から15年程前のことになる。当時はギターが普及しはじめた頃であったが,ハーモニカの愛好者も多く,私が入部した昭和35年には入部希望者が80名ほどあったらしい。
 入部第一回目の集会の時に50名ほど新入部員が居たような記憶がある。その頃の部員数は常時80名ほどであり春の定演では全部員はステージに乗り切れなかったように思う。
 当時の定演は第一部が学生服,二部,三部は城のワイシャツにおそろいのネクタイであった。
 部員が一番たのしみにしていた演奏旅行は夏冬の年二回であり、夏は長い場合で40日間,冬で二週間程度でありメンバーは40名だった。旅行用として毎年夏にピンクや青の半袖のワイシャツとズボンを新調した。いまでも演奏旅行のことが一番想い出深い。
 演奏旅行の前には合宿があり,そこで旅行用の曲を練習するわけであるが,その頃は今と違って就職試験と重なり忙しかった。合宿先から試験を受けに山を下り,旅行先から面接に東京まで戻ったりした。
 当時は,今から思えば複音ハーモニカの終わりの時代であった。卒業後何年もたたないうちにハーモニカは単音に変わってしまい,あの懐かしい複音の柔らかいサウンドはもう今では殆ど聞くことがない。
           <大悟法操一 昭和39年卒・東京>