「明治大学ハーモニカソサエティー物語」木田OB会顧問
  
 (季刊明治第9号(2001.1.15)投稿原稿)

 

 大学に限らず、中学・高校も含めて音楽サークルの創立時期は、そのほとんどが昭和の時代であり、大正時代の創立というのは非常に少ない。その中にあって、明治大学ハーモニカ・ソサエティーは、大正7年の同好会的集まりを経て、大正8年(1919年)に故・佐藤時太郎等によって創立され、今年で82年の歴史を誇る。創立当時は、まだラジオもテレビも無い時代で、音楽をやるのは道楽と言われていたこともあって、大学の公認団体として認めてもらえなかったそうである。4年後の大正12年に、明治大学マンドリン倶楽部が創立されているが、昔からハーモニカ・ソサエティーとマンドリン倶楽部は兄弟と言われているのは、同じ大正生まれというのも、一つの理由ではないだろうか。筆者も明治大学を卒業して35年になるが、マンドリン倶楽部の常任指揮者である甲斐靖文さんとは、今も交流が続いている。兄弟と言うからには、どちらが兄であり弟であるのであろうか。それは、マンドリン倶楽部の創立者の故・古賀政男氏の言葉を紹介すると、「当然ハーモニカ・ソサエティーが兄であり、マンドリン倶楽部が弟です。当時のハーモニカ・ソサエティーの人気は大変なもので、その人気にあやかってマンドリン倶楽部もハーモニカ・ソサエティーの夏の衣装である、白いズボンに白い靴を真似して着用してみたが、とうていハーモニカ・ソサエティーには、かなわなかった」と述べている。大正から昭和にかけては、日本のハーモニカの黄金時代であり、ソバ屋のお兄さんまでが競ってハーモニカを吹いたと言われている。そのハーモニカの合奏とはどういうものであろうかと、大正9年10月28日の明治大学ハーモニカ・ソサエティーの第1回定期演奏会にはハーモニカの愛好者が殺到し、会場の窓ガラスが割れるほどの混雑ぶりで、集まった入場料の硬貨がトランクに入り切らず、トランクのカギが壊れてしまったそうである。このような人気があったので、ハーモニカ・ソサエティーに入部したくて明治大学を受験する人も出てくるし、他校からわざわざ転校して来た部員もいた。
 ハーモニカ・ソサエティーの歴史の中で、特にご紹介したいのは、世界三大校歌とも言われる、明治大学校歌の誕生についてであるが、ハーモニカ・ソサエティー創立当時、明治大学には校歌がありませんでした。他校はすでに校歌があり、様々な機会に歌われているので、学生の間で何とか明治大学にも校歌を、と言う声が上がりハーモニカ・ソサエティーが中心となって、校歌の必要性を学校当局に申し入れ、部員の服部茂と部外の牛尾哲造氏が、作詞を児玉花外に依頼し、部員の鈴木重吉が、作曲を山田耕筰に依頼し、出来上がったのが「白雲なびく・・・」の現在の校歌であります。この時、一緒になって校歌制定に協力していた学生が、後の明治大学総長となられた、武田孟氏であった。山田耕筰は説明するまでもない程有名な作曲家であり、日本全国の社歌・校歌を5
00曲近く作曲している。児玉花外は本名、伝八。明治7年7月7日に生まれ、昭和18年9月20日に亡くなった、不遇の詩人と言われている。作詞家としての実績は、私の調べた限りでは、他大学の学生歌1曲と、もう一つの他大学の寮歌、あとは軍歌が2曲あるだけである。人名事典には、明治時代の詩人で大正・昭和には目立った活躍はしていないが、明治大学の校歌を作詞したと紹介されており、明治大学校歌が代表作と言って良いのではなかろうか。校歌は出来ても、やっと国産のレコードが現れ始めた頃で、蓄音機は高価な物だし、ラジオも無い時代、校歌誕生の15年前の1905年、帝国海軍が「軍艦行進曲」の歌を広める為に斉唱付きのレコードを吹き込んだのは、外国からの出張録音であった。そのような背景の中で、校歌を唄えるようにする為に、放課後各サークルの部員を集め校歌の練習と普及に力を注いだのもハーモニカ・ソサエティーでありました。21世紀を迎えた今から見ると、校歌が誕生した頃は、まだ19世紀の香りが漂う、まさに文化の潮をみちびいて、眉秀でたる若人が、撞くや時代の暁の鐘の時であった。ハーモニカ・ソサエティーでは、校歌の編曲は荘厳な感じのするスローテンポと、軽快なマーチテンポの2種類の編曲があり、演出・構成により、使い分けて演奏している。

 大正12年の関東大震災の大学復旧に、国内はもとより、韓国、台湾、中国まで行って演奏旅行の収益金を学校に寄付した事、部員・OB個人でも独奏レコードを多数出した事、明治大学内にハーモニカ合奏団体が最盛期には6団体もあった事など、戦前のハーモニカ・ソサエティーについて、まだまだ書きたい事はあるが、先日NHKテレビの太平洋戦争の学徒出陣の特集で明治大学生も出ていたが、その学徒出陣の先鞭とも言うべき、ハーモニカ・ソサエティーの部員が繰り上げ卒業で戦場に赴く前の、戦前最後の定期演奏会の悲壮な告別の辞を、歴史の資料として紹介したい。

              記

 大東亜戦争第二年目の初夏を迎えた時局益々重大性を加へつつある時、長き者は六年、短き者も二年余の間、音楽を共にして参りました部員十五名が懐かしき我がハーモニカ楽団を後に致しますのは、誠に残念でもあり、又名残り惜しい次第であります。咋併、我々卒業生の全員がこぞって帝国防衛の第一戦に立ち得ます事は、此の未曾有の戦いに生を得たる青年の輝かしき誇りであると信ずるものであります。我々は此の機会に於きまして必ずや皆様の御期待に反かぬ奮闘を致す事を固く御誓い申し上げます。偖て将来に於いて、ハーモニカを通じての音楽報国の重要性は益々増加するものと存ぜられます。而して、これが目的完遂のための残留部員に対しては一層の勉強を期して居りますが、ご来場の皆様方に於かれましても尚一層の御鞭撻を賜りまして、共に健全なる銃後の建設に邁進致したいと存じます。簡単でありますが以上を以て御挨拶に代へたいと存じます。


  昭和十八年六月十九日                    卒業生一同


  終戦は昭和20年、東京は焼野原となった中で、部員も数名の解散寸前まで追い込まれた中で、部員集めに苦労しながら公開演奏が出来るように練習に励み、昭和28年に戦後復活第1回目としての定期演奏会を開いた。翌、29年の定期演奏会の紹介記事を見ると、「折から早慶戦の結果が伝わり、明治の優勝が確定したとの朗報がもたらされるや、会場はわれるような歓声につゝまれ期せずして“白雲なびく駿河台…”の斉唱がわきおこった」とある。六大学と言えば早稲田大学応援団吹奏楽部出身の知人は「明治の校歌はいいですね、曲も良いけど他大学より歌詞がはっきり聞こえますよ」と述べている。
 創立時代の指導者は、日本のハーモニカのパイオニアである、故・川口章吾であったが、戦後復活の指導者は、私財もつぎ込んで支え続けた、昭和26年卒業の故・石川登であった。昭和44年の創立50周年記念・第77回定期演奏会には、この川口章吾、石川登、両人と、現OB会長である昭和33年卒業の楠司郎も出演し、盛大に行われた。創立の時の指揮者が50年後に指揮をするのであるから、歴史の重みが伝わってくるというものである。創立当時、川口章吾は浜松のヤマハから指導に通い、交響曲を演奏する為に、特別注文のハーモニカをヤマハに作らせた。石川登は昭和27年から31年までの5年間だけ開催された全国学生ハーモニカコンクールを5年連続全て優勝に導いた。この二人の功績は計り知れないものがあり、創立・復興時には強力なこのような指導者が必要であったが、ハーモニカ・ソサエティーは基本的には、昔も今も指導者・OBに頼らず、自分達で運営をしているし、OBも口を出さない。紙面も残り少ないので詳しく紹介出来ないが、昭和40年代から50年代にかけて、大学紛争によるクラブ活動の影響とか、使用していた合奏用のハーモニカの製造中止とか、演奏旅行の減少とか、楽器の質の低下とか、聴衆の減少と会場費の高騰、最も新らしい問題では就職協定の廃止で、就職活動が早まった為にクラブ活動どころではなくなってきた事が挙げられるが、様々な困難に自分達で立ち向かって運営して行く経験が、その後の大きな財産となっている。他大学のハーモニカ・ソサエティーは年1回の定期演奏会であるのに、明治大学は年2回の定期演奏会を続けており、これも創部以来の伝統である。
 時代と共に楽器の編成とか演奏曲目も、その時の現役の考えで変わってくるし、同じ曲を演奏をしても編曲が変わることもしばしばである。これは一つには、管弦楽、吹奏楽、合唱、マンドリン合奏などは、オリジナル楽曲があるが、ハーモニカ合奏にはオリジナル楽曲がないという事の表れではないだろうか。裏を返せば、何でも演奏出来るし、事実レパートリーは多岐にわたり、バラエティーに富んでいる。その中にあって、明治大学校歌の演奏は、昔からの変わらぬスタイルを守り続けている。それを演奏する者も、聴く者も、特に学生時代に演奏した事のあるOB達は、それを聴くと一瞬にして眉秀でたる若人に変身出来るのである。